然我不是很欣子的
甚至得有些它提出的字相可疑 或看不懂它什
但是
我同位年在日本行的台籍日本社或日本人的察
我得日本也有其值得肯定的地方
但是我也有候得 他博知
【】日本よ、こんな中国とつきあえるか(14)
台湾人医の直言
(送自由)
出版 木房(2006年7月)
著者 林 建良
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%88%E3%80%81%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AA%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%82%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%8B-%E6%9E%97-%E5%BB%BA%E8%89%AF/dp/4890632018/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1208414945&sr=8-1 第2章 台湾からた日本および日本人
争いを避けたがる日本人に平和は守れない
6、博学にして知な日本人
●被害者に命の尊さを教する?
日本に来て一番感心したのは、日本人の知の高さでありかさである。日本の一般庶民が、台湾の庶民に比べて富な知を持っていることにかされた。ごく普通のおじさんやおばさんでもかなりの教を持っていて、文化、芸、文学など、いろいろなことについて知っている人が少なくない。
私は木の片田で生活しているので、まわりには家の人が多い。そこには俳句や短歌を作っているおじいちゃんやおばあちゃんたちがいて、彼らはよくその作品を私にせてくれる。なかには、を描いているお年寄りもいて、そのをもらったりもする。をしてみると、国の状にしろ社会状にしろ、それなりの知を持っていて、私の知らないをよくかせてくれる。
日本に来る前から、日本人は本をむのが大好きだといていた。、日本に来て本屋をのぞいてみると、思っていた以上に出版されている数が多いのにかされた。あらゆる分野をし、手に入らないものはないのではないかと思い、日本人は出版物にはまれていると感心した。
おそらく日本人は、世界のどの民族と比べても知の点では最高水にあるのではないかと思われる。しかし、なぜか非常に幼稚ともえるところがある。知に近い、あるいは知と言っていいような象をきすることが多い。
私がよく予防注射に行く木今市市(日光市)内の小学校で、一年生の女の子が害されるという事件が起こった。何とも酷い事件である。
このような事件が起こると、学校ではまって全校集会をき、子供たちに命の尊さを教する。しかし、これはな光景だ。被害者になっていたかもしれない子供たちに、命の尊さを教するということにどういう意味があるのだろう。子供たちに命の尊さを教するのは滑稽としか言いようがない。命の尊さを教するなら、犯人にすべきなのである。子供たちに教えるのは、いかに自分の身の安全を守るか、それだけだ。
●人の善の面ばかりをしすぎる日本の教育
日本の後教育をていると、人の善の面ばかりをして、の部分には触れたがらない向がい。まるで童の世界をているようだ。しかも、それは幼い者にするほど著で、制を力なくして、本能的な部分を尊重しているようだ。かつて小科も担当していた私かられば、これは子供の物的部分を放置するようなもので、教育の放でしかない。
たとえば、性の尊重をする。しかし、人はそもそも自己中心的なので、教えずとも本能として性をする。学校教育というのは、自分の性だけではなく他人の性を尊重し、社会のルルを守ることを教えるだ。それを、性や自由といった本能にすることを教えるというのだから、これが学校教育と言えるのかどうかはなはだ疑だ。
また、幻の平和と反を吹する一方で、正感と冒心を意的に子供たちから取り除こうとしている。そして、まって命の尊さを教する。子供のに相当する物的部分を放置しながら、正感と冒心を抹消しようとするこのような日本の学校教育は、善的で偏っているとしか言いようがない。
そもそも、子供が善の存在だというのは幻想にすぎない。子供にもの部分はある。だからこそが必要なのであり、さらにこの世には善もあればもあるというを子供に教えるべきなのである。の存在を教えないような教育であれば、当然ながらに向かっていく正感も育たない。また、我が身を守る心えも育たないのである。
このような教育はつまるところ、子供に迎合して教育しているのである。知のある者が知のない者に合わせて教育しているということである。こういう教育の状をてしまうと、これは知に基づいてやっているとしか思えないのである。
私は地域のかたわら、地元の小学校と中学校の学校医もめている。日本の教育は子供に媚びる向がにいように感じている。
子供を垢で善な存在と考え、それに基づいておこなわれる性尊重の教育は、局、教育の崩をもたらしているが、これは教育任の放以外のなにものでもない。なぜなら、それは人は本来、善とを兼ねえている存在であることをしておこなっている教育だからである。果として、人のの部分を正することを放し、善を伸ばすこともできないのだ。
子供を善の存在とする教育思想は、子供のの部分を放置して助してしまう。、私の室に、にして命令形でをしたり、バカと怒りつけたりする子供を多くかける。このような子供たちがどのような大人になるのかは、成人式での新成人のふざけをれば想像がつく。
なぜいはずの日本の大人はわからないのか、台湾人の私は理解に苦しむ。いや、わからないはずがない。前の日本人は子供に媚びるような真似はしなかったという。しかし、代のや教にとっては、性の尊重をに、子供に媚びる方がだからだろう。
●知やデタは蓄できても、言はされない?
ところで、国家レベルかられば、日本はありとあらゆる世界情にするデタを持っている。日本の繁はこれらのデタによるところが少なくない。
先にも触れたように、二五年一二月八日、民主党の前原司代表(当)がアメリカで中国のについて威だと言したことがあった。当たり前のことを指摘したにもかかわらず、民主党内からは山由夫事をはじめ前原言を非する声が相次いだ。
一二月二二日、今度は麻生太郎外大臣が後の者会で、中国のについて「事が一七年、一パセント以上伸びている。その内容はきわめて不透明だ。かなり威になりつつある。前原氏の『威、不安をあおっている』という言い分はかだ」と言したところ、山崎拓元自民党事が「威と言ってしまうと、しなければならなくなる」と批判した。
もちろん中国は、前原言にも麻生言にも、根のない中国威であり、「中国の展が、日本を含むアジア各国に大きな展のチャンスをもたらすなど、地域や世界の平和に献してきた」と、中国のは日本の展にも献したといて反した。
この前原代表や麻生外相のケスにれているように、日本では、いろいろなデタをそろえ、いろいろな知を蓄することはされているが、その知やデタに基づいて言することや行を起こすことはされていないようだ。つまり日本では、研究するのはいいが、行を起こしてはいけないことになっているようなのである。
世界では人、争、数、切り、争、源の争などさまざまなことが起こっている。しかし日本では、このようなことは映画やドラマの世界の出来事と片づけ、まるで存在しないかのように考えて「臭いものにフタ」をしているように思われる。日本人をていると、そのようなことが世界で起こっているとは考えたくもないというふうだ。
これは、ある外交官からいたである。
外国人新者が外省の高官に「もし万が一、台湾と中国が争になったら、日本の外省はどのような策をとるのか?」とした。これはきわめて性の高い想定で、当然、策はあるものと思っていたのだそうだ。すると高官は「われわれはそのような事を生させないように努めている」とだけ答えたという。
それだけだったので、その者はもう一度「もし生したらどうするのか?」とき直した。すると高官は「われわれはそのようなことは考えたくない」と答えたというのである。
かに、外交官としては事が生する前にその芽を摘み取っておくのが役目と考えての言だったのかもしれない。もちろん、それが外交官としての役割なのだから理解できなくもない。しかし、「考えたくない」とはどういうことだろう。言の影力を考えて「定のには答えられない」と言うのならまだわかる。しかし、外交の最先端にいる外交官が考えなくてが考えるというのだ。
はここに今の日本が透けてえるのである。日本人には、世界でに起こっている争も人も暴も略も「考えたくない」象であって、映画やドラマという虚の世界に押しめてしまいたいのであろう。
●争の想定すらできない日本人
では、日本人は事学や世界情について知であるかというと、してそうではない。私が知っている自官にしても事マニアにしても、恐ろしいほどの事知を持ち、世界情の分析も的で、私はいつも感心しながらしている。しかし、この知を行としてどのように活用するかについてはほとんど考えていないようだ。
たとえば、中国と日本の兵器などの力をよく知っている日本人に、「万が一、中国と日本がうときはどうするのか?」とうと、途端に口が重くなって、まるでのように口をつぐんしまうのだ。
このように、知に基づいて事を分析·予して行に移すということが日本ではタブとなっている。そこで思考を停止してしまうのである。それゆえ、起こっていても、てぬふりをし、起こりうると予される事であっても、非として考えないようにしているのが今の日本だと言ってもあながちいではあるまい。
それが冒に述べたような教育にもれ、人事件があるたびに、学校は身を守るための行については教えず、命の尊さを教するだけに始してしまうのである。また、自国の将来にわる防をどうするかというでは、争の想定すらできない日本人がえつつあるのである。
おそらく大方の日本人は、日本が核兵器の威にさらされたとしても、かたくなに「非核三原」を守るつもりなのかもしれない。しかし、前原司氏も指摘したように、すでに中国の核ミサイルは日本に向けて配されているのである。これも「非」の事だというのだろうか。
●いつまでも学生分に浸っている日本人
日本にくいればいるほど、日本人全がずっと学生でいるのではないかという感じがくなってきている。日本人全が日、一所命に勉しながら学校生活を送っているような思いにとらわれるのである。学校のキャンパスにいれば、学内で多少のいざこざがあっても、学外で起こっているや人や争からは保され、仲や先生にめられればそれでよしとして足しているのである。
その点で、今の日本人は害された小学校一年生の女の子のようにも思えてくる。学校では一所命に勉しているが、自分をどう守るのかを学校では教えてくれないし、自分もそのを身につけていない。学校のなかなら先生や仲に守られているが、一、学校から出れば守ってくれる人はいない。
今の日本はアメリカに守られているが、アメリカが手を引いてしまえば、学校から一出た女の子と同じような立に立つ。しかし、日本はどのようにしたら自立できるのかといったは、すぐに封じられてしまう。行はおろかさえもまともにできない国なのだ。
日本をどう守るか、日本の置かれている状はどうなのかなどについて、日本人はよく知っている。しかし、有事のはどうするのか、どのようにするのか、そのようなことについては立ち上がろうとしない。日本が集的自を行できないでいるのも、これが原因していると言ってよい。
日本人は知を持っている。しかし、学校で学んだ知のようにには役に立たない知かもしれないし、そうでなかったとしても、使おうとしない知であれば、いくら博学でも知に等しいのである。
(次のは7月28日)
『台湾の声』
http://www.emaga.com/info/3407.html