みえて:
この本はパレスチナ、イスラエルと欧米についてられているのですが、欧米の知人やアメリカのメディアによるパレスチナにする描写をんでいると、めまいがします。これは、日本の中国研究者による中国についての描写や、台湾のメディアや知人(と自している人々)の日本にする描写とそっくりなのです。このことからも、サイドがっているのは、パレスチナというある特定の地域のではなく、私たち一人一人にとってとても身近な、普遍的なだということがわかります。私の言よりも、サイドの言の方がずっと力があるので、以下はです。この本にもっと早く出あえていたらよかったのに。
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とりわけ不幸なことだと思われるのは、こういうオリエンタリストたちは、アラブ人やイスラムの文化を理解し解するのが仕事であり、この文化でを食っているというにもかかわらず、はこの文化に露ほども共感を抱いていないことで、彼らは、意を持って、立者の立から、この文化を取りうのです。(42)
→こういう知人に、日本でも台湾でも嫌と言うほど会いました。これがまた、本人はなにやら使命感をもっていたり、自分の研究象を「好き」だと思っていたりするから、余に反省することができません。私はこの人たちから、「に好きと言ってもいろいろある」ということを学びました。
彼らにとって、イスラエルとは世俗化された信仰の象にすぎず、金を送る所でしかないのです。四方をにまれて暮らさなければならないというイスラエルの状は、ユダヤ系アメリカ人に直接ふりかかってくるではない。それだからこそ彼らは、そのようなイスラエルの孤立したあり方を男らしく勇猛な正しい行であるとし鼓舞し得るのです。(44)
→上野千子が「男らしさ」とは病であると言っていたけれど、こういう述をむとそのとおりだと思います。
第三に指摘されるのは、在、中道に携わっているジャナリストの多くが、ジャナリストの名にしないことです。この人たちは、活をしません。言も分からないのです。彼らは、危が生するところへけつけます。しかし彼らがカバするのは、テロリストとか、暴力事件といった、教科どおりのトピックスだけです。それ以外の事件は、あっさりされ、味を欠くものとなされ、したがって存在しないと言うことになるのです。アラブ世界で何が起こっているかについて、政治的な心が不在なのです。(47)
なるほどアラブ世界の政治は腐し堕落きっており、その点については西洋の家たちの批判はもっともなのですが、皮肉なのは、そういう批判をしておきながら、この人たちのひとりとして、そうした状にするいがアラブ世界の内部で起こっていることをめたり、それに共感したりすることがないという事です。(60)
→この段落をんだとき、思わず「そのとおりだ!」と叫びそうになりました。こういう状に私も日々直面しており、一部の台湾のインテリは、日本や日本人を批判することが政治的に正しく、かっこ良いことだとおもっていらっしゃるようですが、声高に、扇情的なによって日本を批判する人に限って、日本や日本人についてくほど知なのです。ある政治的なテマについて、日本国内でも々ながあることを一切して、日本人は一人残らずウヨクの国主者のように描写するのです。しかも最なのは、そうすることによって、自分が国内でおいしい思いをしていることにまったく自であるか、反省なのです。私は、自分の既得利益に自で反省な人の日本にする批判はまったく耳をけることができません。自己反省的な人同士でなければ、等なというのは成り立たないと思うのです。
最近の文章の中でが非してきなもののひとつは、学でも政治でも抑されたのに往々にしてられるような、もし自分たちが先に旋の集いに到したら、他の者たちを返してやろうというような想です。これは解放という考えにまったくそぐわないものです。これではまるで、利によって与えられる特のひとつは、他者をみなめ出してしまえることだといわんばかりです。(88)
ネイションの自が自己目的化し、エスニックな特性や人的な特性のや、捏造によるところの大きい民族や国民の本といったmのの追求が、文明や文化や政党の目になるときには、もはやそれは人の共同体とは言えず、何かのものになってしまうのです。(88)
→これも本当にしょっちゅう目するものです。中国がせるようになってから、嫌と言うほどかされたのは、「中国が国になったら、もうも中国をばかにできない。日本なんか」という台です。こういうことを言うのは(少なくとも私の前では)男性ばかりでしたが、こういう言をくたびに、「下品な人だな」と思っていました。事力があったり、お金があっても、人々の敬意というのは必ずしも得できるものではないと、私は信じています。私は、台湾で、もっとの意味で「か」な友人にたくさん出会いました。私の友人たちの「か」な生活を目したことは、私に大きな影を与えました。だからこそ余に、先のような人物に会うと「下品な人だ」と思ってしまうのです。
ここにある考えは、人はじた容れ物ではなく、物が中を通りけていく器なのだということです。人は旅人であり、景色や音や他人の身体や考えを自分自身に刻印することによって、自分以外のものになることができる。海のようにたくさんのもの受け入れることができ、それによって人存在に深く食いんでいる帷子をほどき、を取りい、ドアをき、壁を取りうことができる。それがこの一のえていることです。(89)
巡礼という行において、国外に移住し、やがてって来るということが非常に重要なのです。人はこの方を行う必要がありますと放浪。どちらか一方ではだめなのです。(90)
帝国主についてのや政治や史の文献は大量に存在しますが、それに共通する大きな欠点のひとつは、文化が帝国の持のために果たした役割をしていることです。(95)
欧米ではイスラムを理解しようという心はほとんどみられず、それとを持とうとする持ちも感じられません。(124)
→これは、私が10年前に日本の中国研究者にして感じた和感とまったく同じです。外大の若い院生でも「は政治とかにかかわらないで、心静かに中国の文法を研究したい」とおっしゃる人がいて、私はのけぞって壁にをぶつけそうになりました。言を勉していても、その言を使って生活している人々や、その人々とすることについてはまったく心がないのです。
まるで能に描かれたうえに、アラブ人が普通のしゃべり方をする面もありません。彼らは金切り声で怒り合い、吠えたて、わめく。(126)
→これは台湾における日本人女性の表象だってまったく同じです。アダルトビデオの女か、ものすごくおばかにこえる舌足らずな中国をす日本人女性こそが台湾ではもてはやされるのです。もっとも日本におるアジア人女性像だってひどいものですが。
しかし、あらゆる状には、どれほど力に支配されていようと、必ずの道があるものです。立されたものや状ではなく、の道について考えるように努め、在の状がしたものだなどと思いまないようにしなければなりません。(140)
→文化こそがオルタナティブなヴィジョンを与えてくれる、と言う点は本当にそのとおりだなと最近思います。台湾のメディアには、たとえ1秒でも触れることが耐えられないので、自力で、もっとい洞察に基づいた、深い内容のある物を自力で探さざるを得ません。でも、そういう耐えい境にいるからこそ、日本にいたときよりずっと主体的により面白い物を探そうという持ちになったのでしょう。そういう意味では、台湾のマスコミにも感しなければならないかもしれません。
交でされるのは、PLO上部を形成しつつあるの利害だけだろうと考えていたのです。つまりブルジョワです。彼らは思想的に合国と本主に依存しており、パレスチナの社会造や、ひいてはそれを包括するアラブ世界全体の社会造の革に、本で取りむのない人たちです。(161)
→これは、台湾の近年の政治状を眺めていても、まったく同じことを感じます。それは、私をとても苛立たせますが、そういう政治家や政党が大好きと言う人がこの国の半数を超えるのですから、致し方ないでしょう。
しかし、彼らには切り替えができませんでした。大物の白人をひとり味方につけさえすれば、その男がすべてを解してくれるという固定念にられていたからです。(166)
→こういう想は台湾でもよく耳にします。これが日本では人ではなく、力のある特定のになるのだと思います。だから、形はっても想は一です。
こうしたことはみな、パレスチナ人が抱くアメリカ人についての型にはまった方が原因です。アメリカ人がパレスチナ人について抱いている固定念もひどいものですが、パレスチナ人のにも同じことが言えるのです。(167)
→こういうことにづく人が少ないのはなぜかしら、と思います。もっとも、私も外国人になるまでははっきりとは分からなかったのですが。みなさん、私よりずっとが良いはずなのに、どうして?と思います。
メディアは大きな力を持っており、CNNの浸透力はすさまじいものがありますが、真の情を与えるという点ではメディアは力です。合国と一握りの西欧の同盟国が支配するようになっている世界思想システムを、ただするだけの役割にとどまってるのです。(195)
→「テレビをないと、新をまないと社会が分からない、状を理解できない」と私に威って忠告してくる人に出会うたびに烈な嫌感が私をいます。それは彼女の信じているであって、私の目にはまったくったふうに映っているということを、彼女はめようとしません。それが私を苛立たせます。しかもそういう人に限って、サイドとかファノンとかが大好きで、日本帝国主を声高に批判する自分にっているのです。
たちはみな、そういう状においてるべき二つの能をえていると思います。メディアの大キャンペンにする能です。ひとつは「」です。彼らが前の日に何を言ったのかえておくこと。……二つめは「疑」です。(195)
こういう能力を磨いて、あらかじめまとめ上げられ思想的な味付けを施された情をただ吸するだけの、受け身の存在になるのを拒することです。テレビのメッセジはすべて、一の加工み思想パッケジ以外のなにものでもないのですから。(196)
それは、植民地支配下において、支配者が自分たちをるを自分の中に取りんでしまい、彼らに教わり、彼らに支えてもらわなければ自分には何をする能力もないと信じてしまうことです。自分たちの社会やに基づくは役に立たず、彼らのでなければ有性がないという考えをもってしまうことです。(209)
→これは私の大学院の定をれば、台湾もまったく同じ状にあることが一目然です。何もかも、アメリカのように、アメリカでめられなくてはだめなのです。もちろん、これは台湾の大学だけがこうだというわけではありません。私たちの日常生活をちょっと察するだけでも、わたしたち一人一人がいかに威に弱くて批判かすぐにわかるのです。